2016年1月1日金曜日

第1版のまえがきから

第1版のまえがきから

 理論物理學を進めてゆく方法は今世紀の間に非常な變更を受けた.古典論の傳統によると,世界は,あるきまった力の法則に從って運動している觀測可能な對象(粒子,流體,場など)の集まりであると考えられ,從って全體の體系の時間空間的なありさまは心に描けるものとされてきた.その結果得られた物理學は,これらの觀測可能な對象を互に結びつける仕組と力とについて假定をたてて,それらの對象のふるまいをできるだけ簡單に說明するのがその目的であった.ところが最近になって,自然界はこれと異なった方式に從って營まれていることがますます明らかになってきた.自然界の基本的な法則は,われわれが直観的に心に描けるような世界を直接に支配しているのではけっしてない.その基本的な法則の支配を受けるのはもっと基礎のものであって,そのものを心に描こうとすればどうしても見當違いのものになってしまう.これらの法則を式にまとめるには數學の變換の理論を用いなければならない.この世界の重要な事柄はそういう變換に對して不變な量(あるいはもっと一般にはほとんど不變な量,すなわち簡單な變換の性質をもった量)として現われる.われわれが直接知ることのできる事柄は,こういうほとんど不變な量の,ある座標系に對する關係である.普通はその座標系として,いろいろな點で特に簡單になるようなものを選ぶのであるが,一般論の立場からいえば,簡單になるということは別にたいせつではない.

 變換の理論はまず相對論に,そして後に量子論に適用され,盛んに用いられるようになったが,これが理論物理學の新しい方法の本質である.そして理論の進歩してゆく方向は,方程式をますます廣い變換に對して不變なものにすることに向っている.このような事情はある哲學的な立場から見れば非常に滿足なものである.なぜならばこういう事情には次のような意味がひそんでいると考えられるからである.それはつまり,觀測の際に現われる規則性は觀測者自身が一役を演じて生まれるものだという點がしだいに認められてきたこと,および自然界の營みはけっしてかってに行われているものではないこと,この二つである.しかしこういう事情のために,物理學を學ぶ人々にとってはいろいろな事柄がかなりわかりにくいものになる.數學的な道具立ては別として,新しい理論を組立てている物理的な槪念は,いままで人々の知っている事柄を用いては說明できないようなものである,それどころか,どうしてもことばでは適切な說明のできないものである.だれでもこの世に生まれてくると習わなければならない基本的な槪念(たとえば‘近い’と か’同じ’とかの槪念)があるが,それと同じように,物理學の新しい槪念も長い間にそれらの性質や使い方に慣れた上で初めて習得できるものである.

 數學の方面からいえば,新しい理論に近づくには別に困難はない.なぜならばその場合に必要な數學(少くとも現在まで物理學の發展に必要であった數學)は,すでに今までかなり長い間使われてきたものと本質的に違わないからである.數學というものは,どんな種類の抽象的な槪念に對してもそれを取り扱うのに特に適した道具であって,この方面で數學の能力には限りがない.こういうわけで,新しい物理學について書いた本は,純粹に實驗の硏究について述べたものでない限り,どうしても本質的に數學的なものになる.とはいうものの數學は一つの道具に過ぎないのであって,數學の形式にたよらずに物理的な考えを心に描けるように努めなければいけない.この本では物理的なことがらをたえず前面に出すように心掛けて,そのため,一番始めに完全に物理的な内容の1章をおき,以下の章では機會のあるごとに數學的な形式の奧にひそむ物理的な意味を調べるようにした.實用に役立つような問題が解けるようになるためには,まずかなり廣い範圍にわたって理論的な基礎を學ぶ必要があるが,この事情は,變換の理論が基本的な役割を演じている結果として,避けられないものであり,將來の理論物理學では一そう著しいものになるであろう.

 この理論について述べる際には,理論を表現するための數學の形式について,二つの方法の內どちらをとるかを始めに決めておく必要がある.つまりその一つは記號的な方法であって,基本的にたいせつな量(變換に對して不變な量など)を直接に抽象的なやり方で取り扱うものであり,他方は座標すなわち表示を用いる方法であって,これらの基本的な量に對應する數の組を取り扱うものである.この第2の方法は量子力學を表現するのに普通に使 われてきたものである.(事實,この方法が實際にはもっぱら用いられてきたのであって,ただワイルの著書’群論と量子力學’だけが例外である.)この方法は通常’波動力學’というなまえか,あるいは,’行列力學’というなまえで通っている.そしてこの二つのなまえの區別は,問題を取り扱う際に物理的な事柄のうちでどちらを强調するか,つまり體系の狀態を强調するかまたは體系の力學變數を强調するかによるものである.この方法の長所は,必要とする數學が普通これを學ぶ人々にとって比較的親しみやすいことである.そしてこの方法はまた歷史的なものでもある.

 しかしながら,記號的な方法の方が物事の本當の性質に一そう深く立ち入っているように思われる.この方法を用いると物理學の法則を簡潔に整ったやり方で表わすことができる.そして將來この方法がもっとよく理解され,そのための特殊な數學の硏究が進められるにつれて,記號的な方法はますます多く使われるようになるであろう.この理由から,わたくしは記號的な方法の方を選び,あとになってから代表を用いたが,それはただ實際に計算をするときの助けにすぎない.その結果として當然,歷史的な發展の筋道からは全く離れてしまったけれども,できるだけ囘り道をせずに新しい考えに近づけるということは,ここで用いたやり方の利點である.

  ST. JOHN’S COLLEGE, CAMBRIDGE
    1930 年 5 月 29 日
P.A.M.D.