5.重ね合わせの原理の數學的な定式化
物理學者が自分たちの硏究題目の數學的な基礎についていだいていた見解にはこの世紀の間に深刻な變化が生じた.以前には物理學者たちは,ニュートン力學のいろいろな原理が物理現象全體を書き表わすための基礎となるものであって,理論物理學者の仕事はそれらの原理を適當に發展させまた應用することに盡きると考えていた.ところがニュートン力學およびその他古典的ないろいろの原理が,實驗的に確かめられた領域の外でも成りたつとしてよい理由は,論理的にいえば何一つないということが認識されるとともに,これらの原理から離れることが實際必要であると了解されるようになった.古典的な原理からどう離れるかというと,それは,新しい數學形式,公理および運算規則の新しい體系を理論物理學の方法の中へ持ち込むという形でおこなわれるのである.
量子力學はそういう新しい考え方の良い例を與えるものである.量子力學では力學系の狀態と力學變數とを,古典論の見地からでは理解し難いようなまったく奇妙なやり方で,互に結び合わせねばならない.狀態と力學變數とは,普通に物理學で用いるものと異なる性質の數學的な量で表わさねばならない.新しい形式が物理學の精密な理論となるためには,これらの數學的な量を規定する公理と運算の規則とがすべてはっきりと指定され,さらに物理的事實と數學的形式とを結びつける一定の法則が定められ,その結果,かってな物理的條件が與えられたとき,それから數學的な量の間の方程式をたてることと,その逆のこととができるようになればよい.理論を應用する際には,一定の物理的な知識を與えられて,それらを數學的な量の間の方程式によって表わすことへと進む.それから公理と運算規則との助けをかりて新しい方程式を導き,それらの新しい方程式を物理的な條件として解釋して結論を下すのである.こういう全體の形式が正當であるかどうかは,内部に矛盾を含まないことのほかに,最後の結果が實驗と合うかどうかによってきまる.
この形式を作りあげる手始めとして,ある一つの時刻での力學系のいろいろな狀態の間の數學的な關係を取り扱うことにする.それらの關係は重ね合わせの原理を數學的な形にまとめれば出てくるものである.重ね合わせの手續きはある種の加え算の手續きであって,いくつかの狀態を何か適當なやり方で加え合わせれば新しい狀態が生ずることを意味している.從って狀態に結びつけられる數學的な量というものは,それらを加え合わせることができて,その結果は同じ種類に屬する別の量になるような種類のものでなければならない.このような量の內で最もわかりやすいものはベクトルである.有限個の次元の空間內に存在する普通のベクトルでは,量子力學のたいていの力學系に對してまだ一般性が足りない.そこで一般化を行って,無限個の次元をもった空間內のベクトルを考える必要があり,その數學的な取り扱いは收れんの問題のために複雑になる.しかしさしあたって,ベクトルの一般的性質,つまり簡單な公理系に基づいて導き出される性質をいくつか取りあげるだけにしよう.そして收れんの問題やそれに關係した題目には必要が起るまでは立ち入らないことにする.
こうして量子力學では力學系にベクトルを結びつけて考えるのであるが,このベクトルについて,有限個の次元の空間內のものでも無限個の次元の空間內のものでも,これをいい表わすのに何か特別のなまえが欲しいものである.そこでこういうベクトルをケット・ベクトルまたは單にケットとよび,一般のケットのことを特別な記號で表わすことにする.ある一つの特定のケットをたとえばという目印をつけて區別したいときはそれを間にはさんでとする.この書き方が適當なものであることは,この形式をだんだん發展させてゆくにつれて明らかになる.
ケット・ベクトルは,複素數を掛けたり,また互に加え合わせたりすることができて,その結果別のケット・ベクトルを生ずる.たとえば二つのケット・ベクトルととから
を作ることができる.ここにととはかってな二つの複素數である.またもっと一般的な1次演算をケット・ベクトルに施すこともできる.たとえばケット・ベクトルの無限の系列を加え合わせるなどの演算である.そしてまた,ある領域内のあらゆる値を取りうるパラメーターに關係し,を目印として表わされるというケット・ベクトルがある場合には,これをについて積分することができて,その結果別のケット・ベクトルが得られる.これをたとえば
と書くことにする.あるケット・ベクトルが他のいくつかのケット・ベクトルを1次的に結びつけたもので表わされるならば,このケットはそれらのいくつかのケットに從屬しているという.また一組のケット・ベクトルが獨立であるとよばれるのは,その內のどの一つをとってもそれが他のものを1次的に結びつけたものでは表わされない場合である.
ここで次の假定をする:ある特定の時刻における力學系のどんな狀態もそれぞれが一つのケット・ベクトルに對應している.そしてこの對應の仕方は次のようである.狀態が他のいくつかの狀態の重ね合わせの結果生ずる場合には,その狀態に對應するケット・ベクトルもそれらのいくつかの狀態に對應するケット・ベクトルを1次的に結びつけて表わされ,そしてこの逆も成立する.この假定によれば,狀態に對應するケット・ベクトルが(1)の式で結びついている場合には,狀態は狀態ととの重ね合わせから作られることになるのである.
上の假定から重ね合わせをする際に成りたついくつかの性質が導かれる.實際それらの性質があってはじめて‘重ね合わせ’ということばにふさわしいといえる.二つあるいはそれ以上の狀態を重ね合わせる時には,それらをどんな順序で重ね合わせてゆくかは問題にならないから,重ね合わせは重ね合わされる狀態について對稱に行われる.また方程式(1)からわかるように(係數またはが零である場合は別として)狀態が狀態ととの重ね合わせで作られるならば,狀態はととの重ね合わせで作られ,はととの重ね合わせで作られる.重ね合わせの關係は三つの狀態 のすべてについて對稱である.
ある狀態が他のいくつかのきまった狀態の重ね合わせの結果になっているとき,この狀態はそれらの狀態に從屬しているという.もっと一般的にいえば,ある狀態が有限個または無限個の狀態の組に從屬しているというのは,この狀態に對應するケット・ベクトルが,それらの狀態の組に對するケット・ベクトルに從屬している場合のことである.一組の狀態が獨立であると呼ばれるのは,その組の內からどの狀態をとってもそれが殘りのものに從屬していない場合である.
重ね合わせの原理を數學的な形にまとめ上げてゆくために,もう一つ假定を持ち込まねばならない.すなわち,ある狀態をそれ自身と重ね合わせても何も新しい狀態を作ることはできず,もとの狀態がもう一度現われるにすぎない,という假定である.もとの狀態がケット・ベクトルに對應するならば,その狀態を自分自身と重ね合わせた結果得られる狀態は,ととをただの數として,
に對應するであろう.ところでとなることもあるかも知れない.この場合には重ね合わせを行うと二つの成分が干渉の効果で互に打ち消してしまい,結果はぜんぜん何もなくなる.この特別な場合を別にすれば,重ね合わせの結果として生ずる狀態は,上に新しく設けた假定からの要求によりもとの狀態と同じでなければならず,從って に對應する狀態はに對應する狀態と同じでなければならない.ところがはかってな複素數であるから次のように結論できる.ある狀態に對應するケット・ベクトルに零でないかってな複素數を掛けると,その結果生ずるケット・ベクトルは前と同じ狀態に對應する.こういうわけで狀態はケット・ベクトルの方向により定められるもので,ケット・ベクトルをどんな長さに決めようとそれにはかかわりがない.力學系のあらゆる狀態はケット・ベクトルのあらゆる可能な方向と1對1の對應をする.ただし,ケット・ベクトルととの方向の間に區別をつけないものとする.
すぐ上で設けた假定を見れば,量子論の重ね合わせが古典的な重ね合わせのどんなものとも根本的に異なることが非常にはっきりとわかる.重ね合わせの原理が成りたつような古典論の體系の場合,たとえば振動する膜の場合には,ある狀態を自分自身と重ね合わせるとその結果はもとと異なる狀態であって,もとと異なる大きさの振動をしている.ところが量子狀態の物理的な特微の中には古典的な振動の大きさに相當するものは何もない.(膜の異なる點での振幅の比を用いれば振動の性質が表わされるが,振動の大きさという意味はこれとはまた別である.)また,いたるところ振動の振幅が零という古典的な狀態すなわち靜止の狀態は存在するけれども,量子論の體系にとってはこれに相當する狀態は何も存在しない.零のケット・ベクトルに對應する狀態はないからである.
ケット・ベクトルととに對應する二つの狀態が與えられると,それらを重ね合わせて作られる一般の狀態はあるケット・ベクトルに對應する.このは二つの複素數すなわち方程式(1)の係數ととによって定められる.これら二つの係數に同じ因子(それ自身複素數)を掛けてやれば,ケット・ベクトルにはこの因子が掛かることになってこれに對應する狀態は變化しない.こういうわけで二つの係數の比だけが狀態 を定める上にきいてくる.それゆえこの狀態は1個の複素數あるいは2個の實數のパラメ一ターによって定められる.こういうしだいで,二つの狀態が與えられたときには,重ね合わせによって2重の無限大だけの異なる狀態を作ることができるのである.
この結果は§2と§3とで論じた例を用いて確かめられる.§2の例では1個の光子に對してちょうど2個の獨立したかたよりの狀態がある.その二つの狀態として,あるきまった方向に平行な直線と垂直な直線との方向にかたよった狀態をとっておいてよい.そしてこの二つの狀態の重ね合わせから2重の無限大だけのかたよりの狀態が得られる.すなわち楕圓形にかたよったすべての狀態が得られる.その狀態の一般のものを表わすには2個のパラメーターが必要なのである.また§3の例では1個の光子に對する2個の與えられた進行の狀態の重ね合わせから2重の無限大だけの進行の狀態が得られる.その生じた狀態の一般の形は二つのパラメ一ターで表わされる.そしてそのパラメーターとしては加え合わせた二つの波動函數の振幅の比とそれらの間の位相の關係をとることができる.このことを確かめておくと,方程式(1)で係數に複素數を許しておく必要がはっきりする.もしも、これらの係數を實數に限っておけば,ととが與えられたとき合成ケット・ベクトルの方向を定める上に重要なのはこれらの係數の比だけであるから,重ね合わせによって得られる狀態の數はただ1重の無限大にすぎなくなってしまうのである.