6.ブラ・ベクトルとケット・ベクトル
どんな數學的理論においても,一組のベクトルがあるときにはいつでも必ずもう一つ別の組のベクトルをつくりあげることができるが,これを數學者はデュアル・ベクトルとよんでいる.デュアル・ベクトルを作る手續きを,もとのベクトルがいま考えているケット・ベクトルである場合について述べてみよう.
いま,あるケット・ベクトルの函數であるという數があるものとしよう.すなわちケット・ベクトル のそれぞれに對して一つの數が對應しているとするのである.さらにその函數は1次函數であるとしよう,という意味は,に對應する數はに對應する數とに對應する數との和であり,をかってな數因子としてに對應する數はに對應する數の倍となることである.するとこの時どのに對應する數をとっても,それはと何か新しいベクトルとのスカラー積と見なすことができる.つまりケット・ベクトルの1次函數の一つ一つに對してこの新しいベクトルが一つずつ存在することになる,をこのように見なしてよいという根據は,後にわかることであるが(方程式(5)および(6)を見よ),新しいベクトルはそれらを互に加え合わせたりそれらに數を掛けたりすることができて,その結果同じ種類に屬する別のベクトルを生ずるからである.これらの新しいベクトルの定義に用いられているのは,もちろん,もとのケット・ベクトルとのスカラー積を作ったときに與えられた數になるということだけであるが,これらのベクトルについて數學的な理論を作りあげてゆく上にはこの定義で充分である.
この新しいベクトルのことをブラ・ベクトルあるいは單にブラとよびケット・ベクトルの記號を鏡に寫した像のという記號を用いて表わすことにする.ブラ・ベクトルの內の特定のものをたとえばという目印をつけて區別しようと思えば,それを眞ん中にはさんでとする.ブラ・ベクトルとケット・ベクトル とのスカラー積はと書く.つまりブラ・ベクトルの記號とケット・ベクトルの記號とを並べたもので,ブラ・ベクトルの記號を左におき,縱の線が2本になるのを簡單のために1本に減らしてある.
およびの記號は一種獨特な括弧(ブラケット)と見なしてもよい.するとスカラー積は完全な括弧(ブラケット)式,ブラ・ベクトルあるいはケット・ベクトルは不完全な括弧(ブラケット)式と見られる.こうして次の規則を得る:完全な括弧(ブラケット)式はすべてただの數を表わし不完全な括弧(ブラケット)式はすべてベクトルを表わす.ただし括弧(ブラケット)の第1の部分をとるか第2の部分をとるかに應じて,そのべクトルの種類はブラまたはケットである.
ととのスカラー積が の1次函數であるという條件は,記號で書けば
と表わされる。但しはただの數である.
ブラ・ベクトルは,それとすべてのケット・ベクトルとのスカラー積が與えられれば,完全に定義されたものと考えられる.從ってあるブラ・ベクトルとすべてのケット・ベクトルとのスカラー積がみな零となるならば,そのブラ・ベクトル自身が零であると考えなければならない.記號で書くと,
二つのブラ・ベクトルととの和を定義するには,どんなケット・ベクトルとのスカラー積を作っても,それがととのスカラー積および ととのスカラー積の和になるという條件を用いる.すなわち
またブラ・ベクトルとただの數との積を定義するには,どんなケット・ベクトルとスカラー積を作っても,それがととのスカラー積の倍であるという條件を用いる.すなわち
方程式(2)と(5)とが示すようにブラ・ベクトルとケット・ベクトルとの積は掛け算の分配公理を滿足している.また方程式(3)と(6)との示すように數因子の掛け算は普通の代數の公理を滿足している.
ここで新しくとり入れたブラ・ベクトルはそのままではケットとは全く異なる種類のベクトルであって,今までのところブラとケットとの間を結びつける關係はそれら2種のベクトルのスカラー積が存在すること以外には何もない.そこでこんどは次のような假定を設ける:ブラとケットとの間には1對1の對應がついていて,に對應するブラはに對應するブラとに對應するブラとの和であり,に對應するブラはに對應するブラの倍であるものとする.但しはの共役複素數である.そしてこれから先は,あるケットとそれに對應するブラとを書き表わすのに同じ目印を用いることにする.すなわちに對應するブラのことをと書くことにする.
一つのケット・ベクトルとそれに對應するブラ・ベクトルとの間にこのような關係をつけたのであるから,それらの一方を他方の共役虛のベクトルと呼ぶのが合理的である.われわれの考えているブラ・ベクトルとケット・ベクトルは複素量である.それはこれらに複素數を掛けることができて,その結果はもとと性質が變わらないからである.しかしブラおよびケットは特別な種類の複素量であって,それを實數の部分と虛數の部分とに分けることはできない.ある複素量の實數部分を求める普通のやり方は,その量自身とその共役量との和の半分をとるのであるが,それはここには應用できない.というのはブラとケットとは異なる性質をもつベクトルであって,それらを加え合わせることはできないからである.この差異に注意してもらうために,ただの數やその他の,實數部分および虛數部分に分けられる複素量に對しては’共役複素’ということばを用い,そういう分け方のできないブラ・べクトルおよびケット・ベクトルに對しては’共役虛’ということばを用いることにする.第1の種類のものについては,そういう量の一つに共役複素なものを作るには,その上に橫棒を引く記號法を用いることにする.
ブラ・ベクトルとケット・ベクトルとの間に1對1の對應があるから,ある特定の時刻に考えている力學系のとるどの狀態もブラ・ベクトルの方向を用いて指定できる.このことはケット・ベクトルの方向を用いるのと少しも變わりがない.實際,理論の全體がそのかんじんの點でブラとケットについて對稱的に作られてゆくのである.
かってな二つのケット・ベクトルととが與えられたときに,その一方のベクトル と,他方のベクトル に共役虛なベクトルとのスカラー積をとればただの數 を作りあげることができる.この數は とは1次的な關係にあり とは反1次的な關係にある.反1次的な關係という意味は, から作られる數は, から作られる數と から作られる數との和であり, から作られる數は から作られる數の 倍であるということである.またもう一つ別のやり方でも, とは1次的な關係にあり とは反1次的な關係にある數を作りあげることができる.それは の共役虛ベクトルと とのスカラー積を作り,そのスカラー積の共役複素數をとることである.そこでこれらの二つの數がいつでも等しいことを假定する.すなわち
この式で とおくと という數は實數でなければならないことがわかる.さらにまた, の場合を除いては
という假定を設ける.
普通の空間ではかってな二つのベクトルから,ただの數――二つのべクトルのスカラー積――を作りあげることができる.そしてその數は實數であり,二つのベクトルについて對稱である.ブラ・ベクトルの空間またはケット・ベクトルの空間ではかってな二つのベクトルからやはりただの數――一方のベクトルに共役虛なベクトルと他方のベクトルとのスカラー積――を作りあげることができる.ただしこの數は複素數であり,二つのベクトルを入れかえると共役複素數に變わる.こういうわけで,ブラ・ベクトルやケット・ベクトルの空間にもある意味で垂直なベクトルというものが考えられるのであって,これは普通の空間での垂直なベクトルという考えを一般化したものである.あるブラ・ベクトルとあるケット・ベクトルとのスカラー積が零である場合にそれらは直交しているといい,また二つのブラあるいは二つのケットがあるときに,一方に共役虛なベクトルと他方のベクトルとのスカラー積が零である場合には,それらのベクトルは直交しているということにする.さらにまた,考えている力學系の二つの狀態に對應するベクトルが直交している時には,それらの狀態は直交しているということにする.
あるブラ・ベクトル またはそれに共役虛なケット・ベクトル の長さは という正の數の平方根として定義される.一つの狀態が與えられてそれに對應するブラ・ベクトルまたはケット・ベクトルを作りあげたい時には,ベクトルの方向だけが與えられているわけであって,ベクトル自身には任意の數因子だけの不定さがある.この數因子をベクトルの長さが1になるように選ぶのが便利であることが多い.この手續きを規格化とよび,このように選んだべクトルは規格化されているという.ところがこうしてもベクトルはまだ完全に定まってはいない.それはこのベクトルにまだ絕對値1のかってな數,つまり を實數として というかってな數を掛けても,その長さが變わらないからである.このような數のことを位相因子とよぶことにする.
上に述べてきたいくつかの假定によって,ある力學系が特定の時刻にとる狀態の間の關係について完全な形式が整った.これらの關係は數學的な形で現われているが,その中には物理的な條件が含まれているのである.そして理論をさらに發展させてゆくと,これらの物理的條件から,觀測に關係したことばを用いて表わせるような結果が導かれるのである.たとえば二つの狀態が直交しているという場合に,それはいまの所では上の形式の中のある方程式を意味するに過ぎないけれども,この方程式は,狀態の間にある種のきまった物理的關係が成りたつという意味を含んでいるのであって,理論をさらに發展させると,その關係をわれわれは觀測結果を用いて解釋できるようになるのである(47ページの中ほどを見よ).