2016年1月5日火曜日

1.量子論の必耍

I 重ね合わせの原理

1.量子論の必耍

 古典力學はニュートンの時代からたえず發展しつづけ,それが應用される力學系の範圍もますますひろがって,物質と互に作用する電磁場までも含まれるに至っている.古典力學の基礎となる考えやその應用の仕方を定める法則は簡單できれいな形式にまとまっているので,もしこれに重大な修正を加えたならば,その魅力に富んだ特徵はすべて失われてしまうのではないかと思われるほどである.しかしながら原子の程度の大きさでの現象を書き表わすには,古典理論の形式よりももっと適切な,そしていくつかの點ではもっときれいで滿足のゆく,量子力學と呼ばれる新しい形式を作り上げることができる,ということがわかってきたのである.このことができるわけは,新しい理論に含まれる變更がきわめて根本的な性質のものであり,古典理論の大きな魅力となっていた特徵とは衝突しないからである.その結果としてこれらの特徵はすべてそのまま新しい理論の形式にとり入れられる.

 古典力學から離れる必要があることは實驗の結果から明らかに示されている.まず第一に古典電氣力學で知られている力は原子や分子が著しく安定なことを說明するには不適當であるが,そもそも物質が一定の物理的および化學的性質を持つためには原子や分子の安定さはどうしても必要である.何か新しい力を假定して用いてみてもやはり事態は救われない.それは古典力學にはあらゆる種類の力について成り立つ一般の原理がいくつかあるが,それらから觀測と直接に矛盾する結果が出てくるからである.たとえばある原子の體系のつりあいを何かの仕方でかき亂してから放っておくと,この體系は振動を始め,その振動は周圍の電磁場に傳えられてこれをゆり動かし,その結果その振動數は分光器によって觀測されることになる.そこで,つりあいを保っている力がどんなものであるにしても,いろいろな振動數をいくつかの基本振動數とその調和振動數とを含む系列にまとめることができるものと期待されよう.ところが觀測をしてみると實はそうではない.そのかわりにいろいろな振動數の間には,分光學でリッツの結合法則と呼ばれる新しい豫想外の關係が觀測されている.この法則によると,すべての振動數はいく つかの定まった項の差の形で表わされる.そしてこれらの項の數は振動數の種類よりはるかに少ないのである.この法則は古典論の立場からは全く理解し難いものである.

 古典力學から離れずにこの困難に打ち勝とうとして,分光器で觀測される振動數はどれもそれ自身一つの自由度を持つ基本振動數であると假定し,力の法則は調和振動を生じないようなものにしたら,と考えるひとがあるかもしれない.しかしこのような理論は,結合法則の說明が全くできないということを別にしても,やはりうまくゆかない.それはこういう理論は直ちに比熱についての實驗的證據と矛盾してしまうからである.古典統計力學によって,振動する系の集まりの自由度の總數とその比熱との間には一般的な關係をたてることができる1)のであるが,分光學に現われる原子の振動數がすべて異なる自由度に相當するものと假定すれば,どんな種類の物質に對しても觀測した値よりもずっと大きい比熱が得られることになってしまう.事實は普通の溫度で觀測される比熱は,それぞれの原子の全體としての運動だけを考えに入れ,內部運動は全くないものとみなす理論によってかなりよく說明されるのである.

 このことから古典力學と實驗の結果との間にまた新しいくい違いが生じてくる.原子のスペクトルを說明するには,どうしても原子にはある内部運動がなければならず,しかもその内部の自由度は,何か古典的には說明のできぬ理由のために,比熱にはあずからないのである.似たようなくい違いは眞空の中の電磁場の振動のエネルギーについても見出される.古典力學によればこのエネルギーに相當する比熱は無限大であるはずであるが,觀測の結果は確かに有限である.實驗結果からは一般に高い振動數の振動は,比熱に對して古典論で定められているだけの役割をしないということが結論される.

 古典力學ではうまくゆかないもう一つの例として,光の示す性質を考えてみよう.一方では干涉と囘折の現象があって,これは波動說を基にしなければ說明できない.他方では光電子の放出や,自由電子による光の散亂などの現象があって,これらは光が小さな粒から成りたっているということを示している.これらの粒子は光子と呼ばれるのであるが,それぞれ光の振動數に應じた一定のエネルギーと運動量とを持っており,電子その他物理學で知られているどの粒子にも少しも劣らぬ實在のものと見られるのである.光子のかけらなどが觀測されることは決してない2).

 實驗の示している所では,この異常な性質は何も光だけに限らず全く一般のものである.すべての物質粒子は波の性質を持っていて,適當な條件の下でこれを目につくようにすることができる.これこそは古典力學がだめになるきわめて著しいしかも一般性をもった例である――だめになるとは單にその運動の法則が不正確だというのではなくて,原子についての現象を書き表わすのに古典力學の槪念を用いることが適當でないということなのである.

 物質の窮極の構造を論じようとすれば古典的な考えから離れる必要のあることは,實驗で確かめられた事實からだけではなく,一般の哲學的な根據からもわかる.物質の構成を古典理論で說明しようとすれば,物質は多くの小さな構成部分からできていると考え,これらの構成部分の現わす性質についてある法則を假定しておき,それから物質全體として從う法則を導き出してゆくということになろう.しかしこれでは說明が完結したことにはならない.なぜならその構成部分の構造と安定性の問題に觸れていないからである.この問題に立ち入ろうとすれば,その搆成部分は,その現わす性質が說明できるように,いずれもそれ自身またもっと小さい部分からできていると假定することが必要になる.明らかにこういう手續きには限りがなくて,このような論法では決して物質の窮極の構造に達することはできない.大きいとか小さいとかが單に相對的な槪念にとどまる限りは,大きいものを小さいもので說明してもむだである.從って大きさに絕對的な意味を與えるように古典的な考えを改めることが必要である3).

 話がここまでくると,科學は觀測できるものだけを問題としていること,またわれわれがあるものを觀測するにはそれを何か外からの影響と互に作用させるのほかはないということを思いおこす必要がどうしてもある.觀測の行爲というものは必ずそれに伴なって觀測されるものをある程度かき亂す.あるものを觀測するとき,觀測に伴なって,それがかき亂されるのを無視してよいときには,そのものは大きいと定義しまた無視できないときにはそれは小さいと定義してよかろう.この定義は大きい小さいという普通の意味とよく合っている.

 通常は,注意深く觀測すれば觀測でかき亂される程度はいくらでも小さくできると假定されている.その場合には大きい小さいの槪念は全く相對的なもので,われわれの觀測の仕方の穩やかさとその目的物とに關係してきまる.物質の窮極の構造の理論にはどうしても大きさに絕對的な意味を與えることが必要であるが,それには次のように假定しなければならない.われわれの觀測能力の細かさには限りがあり,それに伴なってかき亂される程度の小ささにも限りがある.この限界はものの本性に根ざすものであって,觀測する人の方で技術を改良したり熟練を積んだりしても,決してその限界を越えることはできない.もしいま觀測されているものがこの避け難い限界の程度にかき亂されることを無視してよいような場合には,そのものは絕對的な意味で大きいものであり,われわれはそのものには古典力學を適用することができる.他方その限界の程度にかき亂されることが無視できないならば,それは絕對的な意味で小さいものであり,これを取扱うには新しい理論を必要とする.

 上に述べた議論からの當然の結果として,われわれは因果律の考えを改めなければならないことになる.因果律があてはまるのはかき亂されることのない體系だけである.小さな體系であると,それを觀測すればどうしても著しくかき亂されてしまうために,觀測の結果の間に因果的な結びつきを見つけることは全く期待できない.新しい理論でも,かき亂されない體系に對しては因果律が適用されると假定する.そしてかき亂されない體系を書き表わすためにたてられる方程式は,ある時刻での條件と後のある時刻での條件との因果的な結びつきを表わす微分方程式となる.これらの方程式は古典力學の方程式と密接に對應しているけれども,觀測の結果とは直接には結びつかなくなる.觀測結果の計算には避けられない不定さがあり,そして理論のなし得ることは,一般には,われわれが觀測をするときにある特定の結果が得られることの確率を計算することだけである4).