Ⅲ 表 示
14.基礎ベクトル
これまでの章ではある種の抽象的な量を含む代數的な理論形式を作りあげたが,この抽象的な量には3種類あった.すなわちブラ・ベクトル,ケット・ベクトル,および1次演算子である.そして量子力學の基本法則の內のいくつかを,これらの量を用いて表わしたのであった.引きつづきこれらの抽象的な量を用いて理論を展開して特殊な問題に應用することもできないわけではない.しかし目的によってはこれらの抽象的な量の代わりに,似かよった數學的性質を持つ數の組を用いて話を進めた方が便利なこともある.こういうやり方は幾何學で座標を用いることと似ていて,特定の問題を解くにあたってその方が數學の力をよく使えるという利點をもっている.
抽象的な量を數で置き代えるやり方は一通りに決まっているわけではなくて,幾何學で用いる座標系がたくさんあることに相當して,この場合もたくさんのやり方が可能である.これらのたくさんのやり方の一つ一つを表示とよび,ある抽象的な量の代わりに用いられる數の組を,その抽象的な量の,この表示での代表とよぶ.つまり抽象的な量の代表は,幾何學の對象でいえばその座標に相當するものである.量子力學でなにか特定の問題を解決しようとする時には,この問題に現われる抽象的な量のうちの重要なものができるだけ簡單な代表をもつような表示を用いれば,勞力が最も少くてすむ.
一般的なやり方で表示を作り上げるために,ブラ・ベクトルの完全な組を一つとり上げる.完全な組というのは,どんなブラでもこの組の中のブラを用いて(和または積分,場合によっては和プラス積分として)1次關係で表わせるようなものである.この組のブラのことをその表示の基礎ブラとよぶ.後にわかるように一定の碁礎ブラをとれば,表示を定めるのに充分である.
かってなケット をとって基礎ブラの一つ一つとのスカラ一積を作る.このようにして得られた數が集まって の代表を作り上げるのである.これらの數はケット を完全に決定するのに充分である.それは,これらと同じ數を代表とするような第2のケットがあったとして,たとえばそれを とすれば, という差は,どの基礎ブラとのスカラー積も零となるはずであり,從ってどんなブラとのスカラ一積も零となり, それ自身が零となるはずだからである.
基礎ブラには一つまたはそれ以上のパラメータ一: を用いて目印をつけてあると考えておこう.これらのパラメ一ターはそれぞれ一定の數値をとるものとする.すると基礎ブラは と書かれ, の代表は と書かれることになる.さてこの代表は一組の數からできていることになるが,その數というものは がおのおの許された變域內である値をとるとき,その値の一組に對してそれぞれ一つずつ決まるものである.つまりこのような數の組はちょうど變數 の函數となっているわけである.從って一つのケットの代表は一組の數とみなすこともできるし,あるいは基礎ブラの目印に用いた變數の函數とみなすこともできる.
力學系の獨立な狀態の數が有限であって,たとえば に等しいときには, 個の基礎ブラをとれば充分であるから,ただ1個のパラメータ一 が という値をとるものとしてそれらの基礎ブラに目印をつけることができる.この場合どんなケット の代表も, 個の數 という組からできているが,これらの數はベクトル をふつうのやり方で座標系を用いて表わしたときの座標そのものにほかならない.ケット・ベクトルの代表という考えはちょうどふつうのベクトルの座標という考えを一般化したものであって,ケット・ベクトルの空間の次元が有限であるときはふつうのベクトルの座標になってしまう.
一般の表示では基礎ブラがすべて獨立である必要は別にない.しかし實際上に用いられるたいていの表示では,基礎ブラはすべて獨立にとってあり,またそれらの內のどの二つも互に直交するというもう少し强い條件を滿足している.この場合にその表示は直交する表示であるとよばれる.
基礎ブラ に目印をつけるパラメ一ターの の變域がすべて實であるような直交する表示をとってみる.そしてケット をとりその代表 を作る.次に という數を作り,これらをある新しいケット の代表と考えてみる.そう考えてもよいわけは,基礎ブラが互に獨立なのでケットの代表となる數は互に獨立にとれるからである.ケット は次の方程式で定義される:
ケット は明らかにケット の1次函數である.從って にある1次演算子を施した結果と考えてもよい.この1次演算子を とよべば
となり,これから
この方程式はどんなケット に對しても成りたつ.從って
方程式(1)を1次演算子 の定義とみてもよい.これからわかるように,基礎ブラの一つ一つが の固有ブラであって,パラメータ一 の値がその固有ブラに屬する固有値となっている.
基礎ブラが直交しているという條件から, が實でありオブザーバブルであることを導き出せる.いま および をパラメ一ター のとる2組の値とする.(1)の の所へ とおいて右から基礎ブラ に共役虛なベクトル を掛けると
と とを入れかえれば
基礎ブラが直交しているという理由から,右邊はからまでのすベてのに對してでない限りは零となる.そしてすベてのに對しである場合には兩式の右邊は等しく,また, が實數であるから,それらは實數である.こういうわけで, がに等しくても等しくなくても,
となる.ここで§8の方程式(4)を用いた. などはブラの完全な組を形づくっており, などはケットの完全な組を形づくっていることから考えて,と結論できる. がオブザーバブルとなるために必要なもう一つの條件,つまり の固有狀態が完全な組を形づくるという條件は,明らかに滿足されている.というのは の固有ブラは基礎ブラであり,これは完全な組を形づくっているからである.
同じようにして に順順に因子 を掛け,その結果得られる數の組をあるケットの代表とみなせば,1次演算子 というものを考えることができる.これらの はそれぞれ基礎ブラを固有ブラとしており,それぞれ實であってオブザーバブルであることを,上と同じやり方で示すことができる.基礎ブラはすべての の同時の固有ブラになっている.これらの同時の固有ブラが完全な組を形づくっているのであるから,§13の定理により の內のどの二つをとっても互に交換するという結果になる.
今度は次のことを示すことにする. を互に交換するオブザーバブルの任意の組とすれば,基礎ブラが 同時の固有ブラになっているような直交する表示を作りあげることができる.最初は の固有値のどんな組 をとってもそれに屬する同時の固有ブラの獨立なものはただ一つしかないと考えておこう.するとこれらの同時の固有ブラにかってな數係數をつけたものは,求める基礎ブラとして用いることができる.これらのブラは直交性の定理からすべて直交しているし(これらのブラの內のどの二つをとっても少くとも一つの固有値は異なっており,それがこの二つのブラが直交するための充分條件である),またこれらのブラの數は,§13の結果から,完全な組を形づくるのに充分なだけある.これらのブラに目印をつけるのには,その屬する固有値 を用いるのが便利である.從ってその固有ブラの一つは と書かれることになる.
次に一般の場合に移り, の固有値の組の內のあるものについては,それに屬する同時の固有ブラで獨立なものがいくつかあるとする.この場合はそのような固有値の一つの組 に屬する同時の固有ブラのすベての中から,いくつかのブラを選び出して,完全性の條件をみたす小さな組(subset)をつくり,その中の固有ブラはすべて互に直交するようにしておく必要がある.(ここで完全性の條件というのは,固有値 に屬する同時の固有ブラであればどれもこの小さな組の中のブラを用いて1次結合として表わせることを意味する.)このことを固有値 の組の一つ一つについて行い,その上でこれらの小さな組のすべてのブラを全部一しょにしてそれらをこの表示の基礎ブラとしてとる必要がある.これらのブラはすべて直交している.つまり,その內の二つをとれば,それらが固有値の異なる組に屬しているときは直交性の定理によって直交しているし,それらが固有値の同じ組に屬しているときは,いま特別のやり方でそれらを選びだしておいたのであるから,やはり直交しているのである.そしてこれらのブラは全體で完全な組を形づくっている.というのはどんなブラでも同時の固有ブラを用いて1次式で表わされ,そしてその同時の固有ブラはそれぞれが小さな組に屬するブラを用いて1次式で表わされるからである.小さな組の選び方は無限にたくさんあるが,それらはそれぞれ直交する表示を與えるのである.
この一般の場合に基礎ブラに目印をつけるには,その基礎ブラの屬する固有値 のほかに一定の實變數たとえば をおぎなって用いればよい. は同じ固有値の組に屬する基礎ベクトルを互に區別するためにつけ加える必要があるのである.從って基礎ブラは というように書かれる.變數 に相當して,(1)に似た方程式によって1次演算子 を定義することができる.そしてこれらの1次演算子の固有ブラが基礎ブラであること,またこれらの1次演算子が實でオブザーバブルであること,およびこれらの1次演算子が互に交換し,また と交換することを示すことができる.基礎ブラは今度は互に交換するオブザーバブル の全部に對して同時の固有ブラとなっている.
互に交換するオブザーバブルの完全な組というものを定義して,すべて互に交換し,固有値のどんな組をとってもそれに屬する同時の固有狀態はただ一つしかないようなオブザーバブルの組である,としよう.するとオブザーバブル は互に交換するオブザーバブルの完全な組を形づくっているわけである.というのは固有値に に屬する同時の固有ブラで獨立なものはただ一つしかない,つまりこれに相當する基礎ブラしかないからである.同じように考えて,方程式(1)とそれに續いて述べたこととで定義したオブザーバブル も,互換するオブザーバブルの完全な組を形づくっている.この定義の助けをかりに交ると,この節のおもな結果は次のように簡潔にまとめることができる:
- 直交する表示の基礎ブラは,互に交換するオブザーバブルの完全な組の同時の固有ブラである.
- 互に交換するオブザーバブルの完全な組を與えられると,基礎ブラ がこの完全な組の同時の固有ブラとなっているような直交する表示を作りあげることができる.
- 互に交換するオブザーバブルの組があれば,これに適當なオブザーバブルをつけ加えて互に交換する完全な組とすることができる.
- 直交する表示の基礎ブラに目印をつけるのに便利な一つの方法は,基礎ブラを同時の固有ブラとする互に交換するオブザーバブルの完全な組の固有値を用いることである.
ある表示の基礎ブラに共役虛なベクトルを,この表示の基礎ケットとよぶ.從って基礎ブラを としるせば,基礎ケットは としるされることになる.あるブラ の代表はそれぞれの基礎ケットとのスカラー積つまり で與えられる.これはケットの代表と同じように數の組とみなしてもよいし,あるいは變數 の函數とみなしてもよい.ところで
が成りたっているが,これはあるブラの代表は,それに共役虛なケットの代表の共役複素數であることを示している.直交する表示では,基礎ブラが互に交換するオブザーバブル,たとえば の完全な組の同時の固有ブラになっているのであるから,基礎ケットは の同時の固有ケットであることになる.
今まではまだベクトルの長さということを考えなかった.直交する表示については,基礎ベクトルの長さを任意のままにしておくよりは,それを規格化してその表示を一段と簡單なものにする方がむしろ當然のやり方である.しかし基礎ベクトルを規格化できるのは,その目印のパラメーターがすべてとびとびの値をとる時に限られる.これらのパラメーターの內のどれかがある領域內の値をすべてとれるような連續變數であれば,基礎ベクトルは何かあるオブザーバブルの連續領域の中の固有値に屬する固有ベクトルとなり,從って,§10の議論(52頁を見よ)により,無限大の長さを持っている.この時には基礎ベクトルに掛ける數因子を定めるためには何かほかの手續きが必要である.この問題を取り扱う便利な方法を得るためには新しい數學的な記號が必要であるが,それを次の節で述べることにする.