2016年3月7日月曜日

10.オブザーバブル

10.オブザーバブル

 いままでたくさんの假定を設けて,量子論では狀態と力學變數とを數學的にどのように表わせばよいかを定めて來た.これらの假定はそれだけとったのでは自然の法則ではないけれども,さらにいくつかの假定を設けて理論に物理的解釋を與えてやれば,自然の法則となるのである.さらに假定をつけ加えるといったが,それは觀測の結果と數學的形式の方程式との兩者の間にはっきりとした關係をうち立てるような形のものでなければならない.

 われわれが觀測を行なうときには,何か力學變數を測定するのである.このような測定の結果がいつでも實數でなければならないことは物理的に明らかであるから,測定できる力學變數はどれも當然實の力學變數であると考えられる.實數の部分と純虛數の部分とを別々に測定すれば,複素力學變數の測定ができるではないかと思うかも知れないが,これでは二つの測定あるいは二つの觀測を含むことになる.それは古典力學であればさしつかえなかろうが量子力學ではそうはゆかない,量子力學では一般に二つの觀測が互に干涉する──一般には二つの觀測が嚴密に同じ時刻に行なえると考えることは許されないし,またもし二つの觀測をすばやく續けて行なったならば,通常第1の觀測は體系の狀態をかき亂して不定さを生じ,第2の觀測に影響を及ぼすことになる.それゆえにわれわれの測定できる力學變敷というのは實のものに限らねばならないが,そのための條件は量子力學の場合には§8で述べた通りである.しかしまた,實の力學變數ならばなんでも測定できるというわけではない.それにはさらにもう一つの制限が必要なのであるが,そのことはのちにわかる.

 さて理論を物理的に解釋するため假定をいくつか設ける.力學系が實の力學變數の固有狀態で固有値に屬する狀態にあれば,を測定するとその結果は確實にという數が得られる.逆に,實の力學變數を測定すると(一般にはいくつかの結果が可能であって,確率の法則に從ってその內のどれかが得られるのであるが,いまはそうではなくて)確實にある特定の結果が得られるような狀態に體系があれば,この狀態はの固有狀態であり,その測定の結果はこの固有狀態が屬しているの固有値になる.實の1次演算子の固有値は常に實數であるから,これらの假定は無理なものではない.

 いまの假定から直接出てくる結論をすこし書いておくことにする.實の力學變數の同じ固有値に屬する固有狀態が二つまたはそれ以上あれば,それらを重ね合わせて作った狀態はどれもやはりの固有狀態で固有値に屬するものとなる.それから考えて,二つ又はそれ以上の狀態に對しての測定をすると確かにという結果の得られるときには,それらを重ね合わせてどんな狀態を作っても,それらに對しての測定をすればやはり確かにという結果が得られるであろうと結論される.このことから狀態の重ね合わせの物理的な意味について多少うかがい知ることができる.また,の異なる固有値に屬する二つの固有狀態は直交している.それから考えると,二つの狀態に對してを測定すると確かに二つの異なる結果を生ずる場合には,これら二つの狀態は直交していると結論される.このことから直交する狀態の物理的な意味について多少うかがい知ることができる.

 實の力學變數を測定するときには,測定という動作のうちに力學系をかき亂すことが含まれているから,そのために體系の狀態は急に變わる.物理現象のもつ連續の性質1)から考えて,第1の測定のすぐあとで同じ力學變數をもう1度測定すれば,第2の測定の結果は第1の測定の結果と同じであるに違いない.こういうわけで第1の測定の行われたのちには,第2の測定の結果には少しの不定さもない.ゆえに第1の測定の行われたのちには,その體系は力學變數の固有狀態にあって,その屬する固有値は第1の測定の結果に等しいのである.この結論は第2の測定が實際に行われなくても,やはり成りたっているはずである.こうして見ると,測定をすればいつでもその測定した力學變數の固有狀態へ體系を飛び移らせることになる.ただしその固有狀態の屬する固有値は測定の結果に等しいものである.

 このことから考えて,どんな狀態にある力學系についても,實の力學變數を測定して得られる結果はどれも固有値の中の一つであると結論される.逆に,固有値はどれでも,その體系の何かある狀態について力學變數の測定をするときに,結果として得られる可能性のあるものである.というのは,もしその狀態がこの固有値に屬する固有狀態であれば,測定の結果は確かにその固有値となるからである.これで固有値の物理的意義が明らかになる.實の力學變數の固有値の集まりは,その力學變數を測定したときに得られる可能性のある結果にほかならず,固有値の計算はこの理由からたいせつな問題である.

 理論を物理的に解釋することと關連してわれわれの設けるもう一つの假定は次のものである.ある特定の狀態にある體系についてある實の力學變數を測定すれば,その結果體系はいろいろな狀態へ飛び移るわけであるが,そのいろいろな狀態というのは.もとの狀態がそれらと從屬の關係にあるものである.ところで體系が飛び移れるこれらの狀態はすべての固有狀態であり,從ってもとの狀態はの固有狀態に從屬しているわけである.しかしもとの狀態としてはどんな狀態をとってもよいから,どんな狀態でものいろいろな固有狀態に從屬していると結論できる.狀態の完全な組というものを定義して,どんな狀態をとってもその組のなかの狀態に從屬しているものとすれば,われわれの結論は次の形にまとめられる──の固有狀態は完全な組を形作る.

 實の力學變數ならばどれでも完全な組を作るに足りるだけの固有狀態をもっているというわけではない.固有狀態が完全な組を作らぬようなものは測定できる量ではないのである.こういう點から,力學變數が測定にかかるための條件として,それらが實でなければならないということのほかに,さらにもう一つの條件が得られた.實の力學變數でその固有狀態が完全な組を形作っているものオブザーバブルとよぶ.從って測定できる量ならばそれはオブザーバブルである.

 そこで次のような疑問が起る.オブザーバブルであればすべて測定ができるのか?答は理論的にはその通りである.實際問題としては,ある特定のオブザーブルを測定できるような裝置をくふうするのはやっかいきわまること,いやおそらく巧みな實驗家でも力の及ばぬことかも知れない.しかし理論の上ではいつでもその測定を行うことができるものと想像してよい.

 さて次に實の力學變數 がオブザーバブルであるための條件を數學的に調べて見よう.の固有値は(有限個あるいは無限個の)とびとびの數の組から成りたっていることもあり,あるいはもう一つの場合として,たとえばととの間にあるすべての數というふうに,一定の領域內にあるすベての數から成りたっていることもある.さきの方の場合には,どんな狀態をとってもの固有狀態に從屬しているという條件は,どんなケットをとってもの固有ケットの和として表わせるという條件になる.あとの場合には.この條件は修正する必要がある.それは和をとる代わりに積分をすることもあるからである.つまり,あるケットはの固有ケットについての積分

で表わされることもある.というのは,この形のケットは確かにの固有ケットに從屬しているからである.ただしこの式ではの固有値に屬する固有ケットであり,積分の領域は固有値の領域である.もっとも,の固有ケットに從屬しているケットがすべて(24)の右邊の形で表わせるというわけではない.固有ケットのうちの一つをとるとそれ自身はこの形には表わせないし,もっと一般に固有ケットの和はどれもこの形には表わせないからである.こういうわけでの固有狀態が完全な組を作るという條件は次のような形式にいい表わす必要がある.どんなケットをとってもの固有ケットの積分プラス和として表わすことができる,つまり

ここで,はすべての固有ケットであるが,およびという目印は固有値ととが等しい場合に固有ケットを區別するために書き入れたものである.また積分は固有値の領域全體にわたり,和はそれらからどう選び出した固有値についてもとれるものとする.の固有値が一定の領域のなかの數のすべてから成りたっている場合にこの條件が滿足されれば,はオブザーバブルである2).

 實際にときどき起ることで,これよりもっと一般の場合もある.それはの固有値が一定の領域のなかの數すべてとその領域の外にあるとびとびの數の組と合わせたものから成る場合である.この場合にはがオブザーバブルであるための條件は,やはり前と同じくどんなケットをとっても(25)の右邊の形に表わされることであるが,ただし今度はについての和はとびとびの固有値の組と領域內の固有値の中からとったものとについての和になる.

 ある特定の實の力學變數が,オブザーバブルであることの條件をみたしているかどうかを數學的にきめることは,非常にむつかしい場合が多い.なぜかといえば,固有値と固有ベクトルとを見つけるという問題全體が一般に非常にむつかしいからである.しかし實驗的な根據からいま考える力學變數が測定できると信じてもまずよい場合があり,このときは數學的證明はなくてもその力學變數はオブザーバブルであると假定しても無理はない.これはいまから理論を展開してゆく間にしばしば行なうことである.たとえば力學系のエネルギーはいつでもオブザーバブルであると假定することにする.實は簡單な場合を除いては,エネルギーがオブザーバブルであることを證明するのは現在の數學解析の力ではできないことなのであるけれども.

 實の力學變數がただの數であるような特別の場合には,すべての狀態が固有狀態であり,力學變數は明らかにオブザーバブルである.この力學變數を測定すればいつでも同じ結果が得られる.それゆえこれは電子の電荷のような物理定數にほかならない.こういうわけで量子力學では物理定數はただ一つの固有値をもつオブザーバブルと見なしてもよいし,または方程式のなかに現われる單なる數と見なしてもよい.この二つの立場は同じことである.

 もし實の力學變數がある代數方程式を滿足すれば,前の節の結果によって力學變數がオブザーバブルであることがわかる.このようなオブザーバブルは有限個の固有値をもっている.逆に,有限個の固有値をもつオブザーバブルならばある代數方程式を滿足する.というのは,もしオブザーバブルが固有値として をもてば,

はをの任意の固有ケットとするときに成りたち,從ってまたどんなをとってきても成りたつ.なぜならばがオブザーバブルなので任意のケットはの固有ケットの和で表わされるからである.ゆえに

 一例として1次演算子を考えて見よう.ただしは規格化されたケットである.この1次演算子は(7)により實でありその平方は,であるから,

である.つまりこの演算子は平方すれば自分自身に等しくなり,從ってこの演算子は一つの代數方程式を滿足するから,オブザーバブルである.その固有値はととであり,が固有値に屬する固有ケット,に直交するすべてのケットが固有値に屬する固有ケットである.こういうわけでこのオブザーバブルは,力學系がという狀態にあるかないかをきめる量であるといえよう.

 この節を終える前に(24)の中に現われるような積分が意味をもつための條件を吟味しておくのがよかろう.いまととを,オブザーバブルの固有ケットの積分として表わされる二つのケットとする:

ただしととはこれら二つの積分される函數を區別する目印として用いられている.すると第1の方程式に共役虛な式をとり,それに第2の方程式を掛ければ

が得られる.さてそこで

という1重積分を考える.直交性の定理から,この式の中の積分される函數は という1點を除いては積分の領域全鱧にわたって零でなければならない.積分される函數がこの1點で有限であれば(29)の積分は零となり,このことがすべてのについて成りたてば(28)により が零となるわけである.ところが一般にはは零とはならないから,一般にはは無限大であってしかも(29)を零とせず有限にする程度のものに違いない.そのためにはどういう形の無限大が必要かという點は§15で論ずることにする.

 いままで述べて來た所では,ブラ・ベクトルおよびケット・ベクトルの長さは有限であり,そのスカラー積も有限であると暗默の內に假定していた.ところがこうして見ると,固有値が連續な領域を形作っているようなオブザーバブルの固有ベクトルを取り扱うときには,この條件をゆるめる必要がある.もしこの條件をゆるめないとすれば固有値が連續な領域をつくっているという現象は起り得ないことになり,われわれの理論は實際上のたいていの問題に對してあまりにも無力なものとなってしまう.

 上の議論でととれば,一般にはは無限に大きいという結果が得られる.無限の長さのベクトルについては§6の(8)に相當する公理として,もしであれば,

を假定することにする.

 ブラおよびケット・ベクトルとして,有限の長さをもち有限のスカラー積をもつものだけをとったときに,これらのべクトルの空間を數學者はヒルべルト空間と呼んでいる.いまわれわれの用いるブラおよびケット・ベクトルはヒルベルト空間よりももっと一般の空間を作っているわけである.

 さて次に一つのケットを(25)の右邊の形に展開する仕方はただ一通りにきまってしまうことがわかる.ただし和の中には同一の固有値に關係する項は二つまたはそれ以上はないことを條件とする.この結果を證明するために,を二つの異なる仕方で展開できたと想像してみよう.するとそれらの一方から他方を引き去って次の形の方程式が得られる:

ただしととは新しく固有ベクトルの目印として用いたものであり,についての和は一方の展開の和を他方の展開の和から引き去ったのちに殘るすべての項を含んでいる.さてもし(31)の和の中に連續な領域のうちにない固有値に關係した項があれば,(31)に左からを掛け直交性の定理を用いて

が得られるが,これは§6の(8)に矛盾する.次に,もしも(31)の積分される函數が,和の中に現われるどのとも等しくないある固有値に對して零にならないとすれば,(31)に左からを掛け直交性の定理を用いて

が得られるが,これは(30)に矛盾する.最後に,(31)の和のなかに連續な領域の內の固有値に關係した項があれば,(31)に左からを掛けて

が得られ,また(31)に左からを掛けて

が得られる.ところで(33)のなかの積分は有限であるので,も有限であり,そこで も有限である.すると(32)のなかの積分は零でなければならず,從っても零となり,やはり矛盾を生ずる.こういう次第で(31)の各項は零でなければならず,ケットを(25)の右邊の形に展開する仕方は必ず一通りにきまってしまうのである.